登入動画が公開されてから、まだ一時間も経過していなかった。
それにもかかわらず、ホテルの窓の下には、報道車両の白い屋根が次々と増えていた。
深夜の車寄せを照らす照明。その光の中を、肩へ機材を担いだ者たちが忙しなく行き交っている。正面玄関だけではない。通用口へ回る者、地下駐車場の出口で待ち構える者、宿泊客を呼び止める者までいた。
厚い窓硝子に遮られ、声までは届かない。
けれど彼らが誰を待っているのかは、確かめるまでもなかった。
凛花のスマートフォンは、テーブルの上で休みなく震えている。
所属事務所。映画会社。テレビ局。スポンサー企業。見覚えのない番号。着信が途切れた直後には、留守番電話とメッセージの通知が押し寄せた。
白い光が暗い室内で明滅するたび、凛花の名前が一人歩きしていく。
画面に表示される動画の再生回数は、すでに百万を超えていた。
扉が開き、篠宮志保が駆け込んできた。
普段なら乱れひとつ許さない髪が頬へ張りつき、黒い上着の襟も片側だけ折れている。走ったためか呼吸は浅く、廊下の冷気をまとった身体から、微かな雨の匂いがした。
「誰とも話していないわね?」
志保は返事を待たず、テーブルからスマートフォンを取り上げた。電源を切り、続けて部屋のカーテンを閉める。
重い布が擦れる音とともに、窓の下に群がる白い光が遮られた。
「話していない。でも、あの映像はおかしい」
凛花の声は、自分でも驚くほど平静だった。
舞台挨拶のために整えた化粧はまだ崩れていない。白いドレスも、髪も、つい先ほどまで喝采を浴びていた姿のままだった。
ただ、膝の上で重ねた指だけが、冷たく強張っていた。
「私はあんなことを言っていない」
「分かっている」
「真白ちゃんに何があったのか確認しないと。頬に痕があった。誰かに――...」
「今は近づかないで」
志保の声が低く落ちた。
「あなたが連絡すれば、口止めをしたと書かれる。心配して電話をかけただけでも、脅迫したことにされるわ」
「だったら、誰が真白ちゃんを守るの?」
志保の唇がわずかに動き、閉じた。
答えの代わりに、テーブルの端へ置かれた別の端末を引き寄せる。
凛花は映像をもう一度再生した。
音を消し、速度を落とす。
画面の中で、凛花が真白の腕を掴んでいる。その直後、真白が床へ膝をつく。凛花が何かを言っているように唇を動かし、怯えた真白が顔を背ける。
けれど実際には、凛花は真白の乱れた髪と頬の痕を見て、何があったのかと尋ねただけだった。
真白がその前に口にした言葉もない。
役も、蒼真も奪うつもりはないと、突然訴えた理由もない。
廊下の奥で撮影していた人影も、照明が落ちた直後の足音も、非常階段へ消えた真白の姿も、何ひとつ残されていなかった。
映像は最初から、凛花が一方的に真白を追い詰めたように切り取られている。
再生するたび、覚えのない自分の声が耳へ刺さった。
『あなたみたいな子が、私の役を取れると思っているの?』
話す速度も、語尾の癖も、息を継ぐ位置も凛花と同じだった。
十年間にわたり映画や取材で残されてきた彼女の声を繋ぎ合わせれば、作れない言葉ではないのかもしれない。
けれど、その精巧さには、衝動的な悪意とは違う冷たさがあった。
以前から準備されていた。
その考えが胸をよぎった途端、室内の温度が急に下がったように感じられた。
「映像担当へ送ったわ。音声が合成されたものか、解析を急がせている」
志保は電話を耳へ当てたまま、短く指示を重ねた。
「元の映像を確保して。投稿者の情報も。削除要請は法務を通して――分かっているわ。でも、本人が発言した音声じゃない」
電話の向こうから何かを返され、志保の眉間に深い皺が寄る。
「だからこそ調べるのよ。公表するかは、そのあとで判断すればいいでしょう」
通話が切れた。
「事務所は信じてくれているの?」
凛花が尋ねると、志保は端末を握ったまま目を伏せた。
「今は、事実を確かめているところよ」
信じているとは言わなかった。
凛花はその違いに気づいたが、何も言えなかった。
新たな通知音が鳴る。
志保が画面を確認した瞬間、その顔から血の気が引いた。
「何?」
「見なくていいわ」
「見せて」
「凛花」
「私のことなら、私が知らないままにはできない」
差し出した手は震えていなかった。
志保はしばらく凛花を見つめ、やがて端末を渡した。
記事の見出しには、暴行疑惑よりも大きな文字が並んでいた。
――白峰凛花、既婚映画監督と深夜の密会。
掲載された画像には、ホテルの廊下を歩く凛花の姿が映っている。壁に表示された階数も、監督が宿泊していた部屋の番号も鮮明だった。
別の画像では、凛花がその扉の前へ立っている。
防犯映像を別の画面から撮影したものらしく、時刻表示の数字だけがぼやけていた。
「私は、挨拶へ行っただけよ」
「分かっている。私が行くように言ったんだから」
「それなら、そう説明して」
「今すぐ声明を出せば、暴行疑惑から目を逸らすための釈明だと言われる。監督にも家族がいる。相手方の許可なしには――」
「許可?」
凛花の指先が、画面の上で止まった。
「私が不倫をしていたことにされているのに、否定するにも誰かの許可が必要なの?」
記事には、凛花と監督が数年前から関係を持っていたと記されていた。
撮影後に二人きりで過ごしていた。海外映画祭でも同じホテルを利用していた。真白がその関係を知ったため、凛花から口封じを受けた。
匿名の関係者が語ったという文章が、まるで確認された事実のように並んでいる。
海外映画祭では、出演者も制作陣も全員が同じホテルに滞在していた。撮影後に監督と二人で残ったのは、台本の修正について話し合うためだった。
どれも本当の出来事を僅かに含んでいる。
だからこそ、嘘がひどく生々しく見えた。
「こんなの、全部嘘よ」
掠れた声が落ちた直後、扉が激しく叩かれた。
志保が凛花を制し、扉へ近づく。
「どなたですか」
「警察です。白峰凛花さんはいらっしゃいますか」
覗き穴を確かめた志保の背中が硬くなる。
廊下には、制服を着た警察官が二人と、スーツ姿の男が一人立っていた。
扉を開けると、冬の冷たい空気が足元へ流れ込んできた。
「何のご用でしょうか」
「白峰凛花さんが所有されている車から、違法薬物とみられるものが発見されました」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
凛花は椅子から立ち上がったものの、白いドレスの裾を踏み、身体をよろめかせた。テーブルへ手をつくと、冷えた硝子の感触が掌へ食い込む。
「私の車から?」
「地下駐車場で不審物があるとの通報を受けました。車内を確認したところ、後部座席の収納スペースから複数の薬物が発見されています」
「私のものではありません」
「詳しいお話は署で伺います」
「待ってください。車の鍵は事務所にも預けています。撮影中は、スタッフが移動させることもあります。今夜だって、私は一度も地下駐車場へ――」
警察官は凛花の顔を見ていた。
だがその瞳には、彼女の言葉を受け止めた気配がなかった。必要な手順を間違えずに進めることだけを考えている、硬い視線だった。
志保が事務所の弁護士へ電話をかける。
凛花は白いドレスのままでは外へ出られず、用意されていた黒いワンピースへ着替えた。背中の留め具を外そうとしても、指に力が入らない。
見かねた志保が背後に立った。
金具が外れ、衣擦れの音が静かな室内へ響く。
「私、逮捕されるの?」
鏡越しに尋ねた。
「まだ決まったわけじゃない」
「薬物なんて触ったこともない」
「ええ」
「志保さんは信じてくれる?」
背後に立つ志保の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「今は、余計なことを考えないで」
その答えに、凛花は目を伏せた。
ホテルの裏口には、すでに報道陣が集まっていた。
誰が警察へ通報したのか。誰が凛花の移動経路を知らせたのか。警察官に囲まれて通路へ現れた途端、暗闇を切り裂くようにフラッシュが焚かれた。
「薬物を使用したのはいつからですか!」
「天音真白さんへ暴力を振るったのは事実ですか!」
「監督との不倫を認めますか!」
「女優を引退するおつもりですか!」
無数の声が重なり、問いかけではなく、鋭い塊となって身体へぶつかってくる。
凛花は何も答えなかった。
答えてはいけない。下手に反応すれば、その一言だけが切り取られる。
そう分かっているのに、唇を結んで歩く自分の姿が、罪を認めた女のように撮影されていることも分かっていた。
警察車両の扉が閉まる直前、誰かが叫んだ。
「白峰さん、天音さんに謝罪しないんですか!」
凛花は膝の上で拳を握った。
指先に爪が食い込んでも、顔を上げなかった。
警察署では、白い蛍光灯の下で同じ質問を何度も受けた。
薬物を購入したことはあるか。使用したことはあるか。誰かに預けられた可能性はあるか。車へ最後に乗ったのはいつか。
壁の時計の秒針が、乾いた音を刻み続ける。
尿検査の結果は陰性だった。
押収された包装からも、凛花の指紋は見つからなかった。
それでも疑いが消えたわけではない。現時点では逮捕する根拠がないという、ひどく頼りない言葉とともに解放されたのは、夜明け前だった。
署の外には、ホテルより多くの報道陣が待ち構えていた。
空はまだ薄暗く、冷たい雨が降っている。傘へ当たる雨音とシャッター音が入り混じり、凛花の耳を塞いだ。
事務所が用意した車へ乗り込むと、後部座席には志保がいた。
暖房の風が冷え切った足元へ触れる。
志保は何も言わず、タブレットを差し出した。
画面には、LUXE ARTSの名で発表された短い文章が表示されている。
――白峰凛花に関する一連の報道を受け、本日午前十時より緊急記者会見を開催いたします。
「私も出るの?」
凛花が尋ねる。
志保はすぐには答えなかった。
「志保さん?」
「事務所は、あなたを会見に出さない方針よ」
「どうして?」
「混乱を避けるためだと言っている」
「私の会見なのに、私が出ないの?」
車内に重い沈黙が満ちた。
前方のテレビでは、朝の情報番組が始まっている。画面いっぱいに、警察車両へ乗り込む凛花の顔が映し出された。
司会者が深刻な表情で原稿を読む。
『新たな情報です。白峰凛花さんの所属事務所が、本日午前十時から緊急記者会見を行うと発表しました。関係者によりますと、契約解除を含めた厳しい処分が検討されているということです』
契約解除。
その四文字だけが、頭の中へ冷たく沈んでいく。
十七歳から十年間、凛花が得た賞も、数字も、利益も、あの会社へ積み上げてきた。体調を崩しても撮影に立ち、家族の葬儀より宣伝活動を優先したことさえある。
それでも彼らは、凛花自身の言葉を聞くより先に、切り捨てる準備を始めていた。
凛花は隣に座る志保を見た。
「事務所は、もう私を切るつもりなの?」
志保は窓の外へ目を向けた。
雨に濡れた街が、灰色の光の中を後ろへ流れていく。
唇を固く結んだまま、志保は何も答えなかった。
その沈黙が、どんな言葉よりも明確な答えだった。
『灰の鳥』の撮影開始から、一週間が過ぎた。 早朝の撮影現場には、まだすべての出演者が揃っていなかった。 スタッフたちは機材を運び、前日に撮影した場面から変更された小道具を並べている。 凛花は共用の控室で衣装へ着替え、台本を持って撮影場所へ向かっていた。 建物へ入る前に、怒鳴り声が聞こえた。「今さら主演を替えろという話を、受け入れられるわけがないだろう!」 日下部の声だった。 普段から言葉は厳しい。 だが、ここまで感情を露わにする姿は珍しかった。 凛花は足を止めた。 撮影に使う古い建物の一角で、日下部と制作責任者が向かい合っている。 扉は開いたままだった。 周囲にスタッフがいるにもかかわらず、二人とも声を抑えようとしていない。「こちらも、簡単に主演を替えたいと言っているわけではありません」 制作責任者が書類を持ったまま答える。「ですが、新しい出資者候補が見つかったんです。この条件を逃せば、撮影を最後まで続けられる保証がありません」「金なら九鬼の会社が出した」「不足しています」 制作責任者の声も強くなる。「当初の予算なら足りました。ですが、撮影所の変更、警備費用、情報管理、新しいロケ地の使用料。白峰さんへの攻撃に備えるたび、予定になかった費用が増えています」 撮影場所を非公開にしたことで、移動や宿泊の手配も複雑になった。 ロケ地の管理者には、通常以上の警備と秘密保持を求めなければならない。 盗撮を防ぐための人員。 出演者たちを別々に運ぶ車。 撮影データを管理する設備。 凛花を守り、作品を外へ流出させないために、予算は膨らみ続けていた。「九鬼側へ追加出資を求めればいい」「すでに相当額を負担しています。制作費を一社へ依存すれば、今度は九鬼会長が作品へ介入しているという報道を否定できなくなる」「今のところ、あの男は何も口を出していない」「今後もそうだという保証はありません」「それで、新しい出資者の条件は何だ」 日下部の問いに、制作責任者は一度周囲を見た。 凛花と目が合う。 明らかに言いにくそうな表情になった。「続けてください」 凛花は自分から近づいた。「私に関係する話でしょう」 制作責任者は書類を握り直した。「出資の条件は、主演の変更です」 周囲のスタッフの動きが止まる。「白峰さんを降板させ、
『灰の鳥』の撮影が始まってから、凛花はほとんど眠れていなかった。 身体は疲れている。 早朝から現場へ入り、一つの場面を何度も撮り直し、夜には翌日の台本を確認する。 ベッドへ入る頃には、目を開けていることさえ辛い。 それでも、眠りへ落ちることができなかった。 目を閉じると、黒い車へ押し込まれた時の感覚が蘇る。 後ろから口元を塞がれた。 腕を捻り上げられた。 車の座席へ頭から押し込まれ、扉が閉まった。 逃げ道を失った瞬間の音まで、鮮明に聞こえる。 顔へ液体を浴びせられた時の冷たさ。 酸かもしれないと考え、身体が動かなくなった恐怖。 黒い染料に汚された自分の顔。 自宅マンションの壁に書かれていた言葉。 ――人殺し。 ――消えろ。 ――二度と演じるな。 そして、ホテルの廊下で泣いていた天音真白。 凛花から暴力を受けたと訴えた顔。 何もしていない。 そう言い聞かせても、真白の泣き声だけが耳から離れなかった。 誰かが意図的に演じさせたのか。 真白自身が嘘をついているのか。 それとも、凛花の知らないところで本当に何かが起きていたのか。 眠りに落ちても、数十分で目が覚める。 時計を見る。 一時十二分。 一時四十七分。 二時三分。 目覚ましを設定しているにもかかわらず、翌日の撮影へ遅れることが怖かった。 凛花が寝坊すれば、現場へ入る時間が遅れる。 撮影が止まる。 また、白峰凛花が全員へ迷惑をかけたと書かれる。 時計を確認する。 まだ二時を過ぎたばかりだった。 九鬼邸の客室は、静かすぎた。 都心から離れた広大な敷地。 外部の音を遮る厚い壁と窓。 高い塀の外を走る車の音さえ聞こえない。 廊下を歩く使用人も、夜間は足音を立てない。 安全なはずの場所だった。 屋敷の周囲には警備員が配置され、監視カメラがすべての出入口を見張っている。 凛花を拉致した男たちも、色水を浴びせた女も、ここへは近づけない。 それでも凛花には、逃げ道のない箱のように感じられた。 何かが起きても、塀を越えて逃げることはできない。 警備員が守る門は、凛花を外へ出さないための門でもある。 目を閉じようとした時、廊下から小さな物音が聞こえた。 凛花は息を止めた。 布が擦れるような音。 続いて、足音。 近づいてくる。 隣の部
『灰の鳥』の撮影二日目。 撮影場所は、郊外にある古い民家だった。 長く空き家になっており、撮影終了後には取り壊されることが決まっている。 塗装の剥げた木製の門。 雑草に覆われた庭。 雨風で色の変わった外壁。 玄関の引き戸には細かな傷が残り、開けるたびに鈍い音がする。 九年間、誰にも手入れされなかった佐伯梓の実家として、そのまま使われることになっていた。 撮影場所は、出演者と主要スタッフにしか知らされていない。 移動経路も当日の朝まで伏せられていた。 九鬼側の警備員たちは、民家の周囲だけでなく、近くの道路や空き地にも配置されている。 撮影区域の外からカメラを向けている者がいないか、何度も確認が行われた。 それでも、凛花は落ち着かなかった。 昨日、駅で撮影された盗撮映像。 何度も歩き直す姿だけが切り取られ、失敗を繰り返して現場を止める女優として拡散された。 最終的に採用された一回は、世間へ届いていない。 失敗だけが、白峰凛花の現在として見られている。「準備できたか」 日下部の声が飛ぶ。「はい」 凛花は梓の衣装をまとい、玄関前へ立った。 この日、最初に撮影するのは、梓が亡くなった母親の家へ入る場面だった。 九年ぶりに戻った実家。 母親の葬儀には間に合わなかった。 家の中には、遺品を整理する者もいない。 梓は一人で玄関を開け、自分を最後まで信じなかった母親の残したものと向き合う。 撮影前に、日下部から動きを指定されている。 引き戸を開ける。 家の中を見る。 一歩入り、靴を脱ぐ。 廊下へ上がり、台所の手前で止まる。 床には、俳優の立ち位置を示す小さな目印が貼られていた。 カメラの画角と照明、焦点を合わせるために必要な印だった。 一度で成功させなければならない。 凛花はそう考えていた。 また撮り直しが増えれば、誰かに映像を盗まれるかもしれない。 撮影場所を隠しても、スタッフの中に情報を流している人間がいないとは限らない。 失敗する姿を見せなければ、切り取られることもない。「本番!」 助監督の声が響く。 カメラが回り始めた。 凛花は引き戸へ手をかける。 建てつけの悪い戸を、指定された速度で開ける。 家の中へ視線を向ける。 一歩入る。 靴を脱ぐ。 廊下へ上がる。 床の小さな目印を踏み、
映画『灰の鳥』の撮影初日。 凛花が九鬼邸を出た時、空はまだ暗かった。 正門の前には、複数の黒い車が並んでいる。 先日の襲撃を受け、警備は倍に増やされていた。凛花の乗る車を前後から挟むように警護車両が走り、撮影機材を運搬する車とは別の経路で現場へ向かう。 目的地は、都心から離れた郊外の町だった。 古い木造住宅や個人商店が残り、中心部から外れた場所には小さな駅がある。 改装を重ねながら使われてきた駅舎には、何十年も前の面影が残っていた。 錆びた鉄柱。 塗装の剥がれた木製ベンチ。 低いホーム。 地方の小さな町を舞台とする『灰の鳥』には、よく似合う場所だった。 凛花が車を降りると、先に到着していたスタッフたちが一斉に振り返った。 車から次々と警備員が降りてくる。 黒いスーツを着た男たちは、駅の入口、ホームへ続く通路、撮影区域の外側へ分かれた。 スタッフの会話が小さくなる。「こんなに必要なんですか」 制作進行が蓮司へ尋ねた。「先日の件を受けて、警備体制を変更しました」「撮影中、一般の利用者も通ります。あまり目立つと、かえって混乱するかもしれません」「一般の方への対応は、こちらで行います」「でも……」「カメラの視界に入らなければ、何人連れてきても構わない」 日下部が会話を遮った。 現場用の上着を着て、すでにホームの状態を確認している。「照明と機材の邪魔だけはするな。画面に黒服が一人でも映ったら撮り直しだ」「承知しています」 蓮司は警備責任者へ短く指示を出した。 男たちはさらに距離を取り、目立たない位置へ移動する。「白峰、衣装へ着替えろ」「はい」 駅舎の一室が、女性出演者用の共用控室として用意されていた。 凛花は梓の衣装へ着替える。 色褪せたシャツ。 使い込まれた上着。 黒いパンツ。 九年間の生活が染み込んだように加工された旅行鞄。 化粧はカメラテストの時と同じく、ほとんど施されない。 腕に残る痣も隠さなかった。「顔に残っていた染料は、もう分かりませんね」 メイク担当者が生え際を確認する。「耳の後ろには、まだ少し残っています」「この角度なら映らないと思います。日下部監督へ確認しますか」「そのままでいい」 背後から日下部の声が飛ぶ。「今日は正面と横顔が中心だ。見えたなら見えたで使う」 日下
冷たい液体が、凛花の顔と胸元へまともにかかった。「きゃあっ!」 周囲から悲鳴が上がる。 視界が黒く染まり、刺激臭が鼻を突いた。 凛花は反射的に目を閉じる。 何を浴びせられたのか分からない。 酸。 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、身体が動かなくなった。 皮膚が焼ける。 顔が崩れる。 目が見えなくなる。 恐ろしい想像だけが、次々と膨らんでいく。「凛花!」 蒼真が即座に前へ出た。 凛花の肩を抱き、自分の身体で女性との間を遮る。 スタッフたちが一斉に女性へ飛びかかった。「離して!」 女性は空になった瓶を振り回す。 男性スタッフがその手首を掴み、別のスタッフが後ろから両腕を押さえた。「瓶を離せ!」「私が何をしたか分かってるの!」 女性が叫ぶ。 空の瓶が床へ落ち、硬い音を立てて転がった。 凛花は顔を両手で覆った。 液体が前髪から頬、首筋へ流れ落ちている。 皮膚が焼けるような痛みは、まだない。 それでも、これから痛みが襲ってくるのではないかという恐怖で、指先が震えた。「水を持ってきて!」「救急車を!」「触らない方がいい、成分が分からない!」 スタッフの声が重なる。 蒼真が凛花の腕へ手を添えた。「目を開けないで。すぐ洗おう」「何を……かけられたの……?」「まだ分からない」「酸だったら……」「大丈夫。今、確認してる」 大丈夫だと言いながら、蒼真の声も硬かった。 瓶を拾ったスタッフが、床へ残った液体を確認している。 別のスタッフが手袋を着け、慎重に臭いを嗅いだ。「これ……染料じゃないですか?」「本当に?」 水で濡らした布へ、床の液体を少量つける。 布が黒く染まった。「水です!」 瓶を確認したスタッフが叫んだ。「酸じゃありません! 黒い染料を混ぜた色水です!」 その言葉を聞いても、凛花の身体から力は抜けなかった。 顔を覆った手を下ろすことができない。 本当に色水なのか。 触れた瞬間には痛くなくても、時間が経ってから皮膚が焼け始めるのではないか。「凛花、洗面所へ行こう」 蒼真に促され、ようやく一歩を踏み出す。 膝が震えていた。「大丈夫ですか」 女性スタッフが反対側から身体を支える。「歩けます」 口ではそう答えても、自分の足で歩いている感覚がなかった。 背後では、取り押さえられ
『灰の鳥』の撮影開始まで、残り三日。 古い撮影所のスタジオには、朝から照明機材とカメラが並べられていた。 正式な撮影ではない。 衣装の色や化粧、照明の強さ、使用するレンズを確認するためのカメラテストだった。 それでも、日下部玄が相手である以上、単に画面への映り方を確かめるだけでは終わらない。 凛花にとっては、主演を続ける資格があるかを試される再審査と同じだった。「白峰さん、着替えをお願いします」 衣装担当者から渡されたのは、色褪せたシャツと黒いパンツだった。 どちらも長年着込んでいるように加工されている。 シャツの袖口は擦れ、黒いパンツも膝の部分だけがわずかに白くなっていた。 ブランド名など、どこにも入っていない。 凛花は簡易更衣室で着替え、鏡の前へ座った。 化粧は最低限だった。 肌の色を整え、カメラの光で不自然に見える部分だけを補う。 目を大きく見せるための化粧も、唇を美しく見せる色も使わない。 長い髪は低い位置で無造作に束ねられた。 鏡に映っているのは、雑誌や広告で見せてきた白峰凛花ではない。 華やかな衣装と計算された照明の中で、完璧な笑みを浮かべる女優。 その姿はどこにもなかった。 そこにいるのは、疲れた顔で九年ぶりに故郷へ戻ってきた女だった。「腕をお願いします」 衣装担当者が、凛花のシャツの袖をまくった。 その手が止まる。 腕には、まだ薄い痣が残っていた。 黒い車へ押し込まれた夜、男たちに掴まれ、強く捻り上げられた跡だった。 最初は赤紫色に腫れていたが、今は黄色がかった色へ変わっている。「こちらは隠した方がいいですね」 担当者がメイク道具へ手を伸ばす。「待て」 少し離れた場所でモニターを確認していた日下部が止めた。「そのままでいい」 衣装担当者が戸惑った顔をする。「ですが、腕をまくる場面では映ります。設定上、梓が怪我をしているとは――」「消すな」「役にはない傷です」 凛花が日下部を見た。「梓に傷がないと、誰が決めた」「少なくとも、台本には書かれていません」「書かれていないものは存在しないのか」「これは私が拉致された時の傷です。佐伯梓の傷ではありません」「カメラに映れば、観客は佐伯梓の傷として見る」「私の傷を、役へ使うんですか」「映っているものを使う。それが映像だ」 日下